感染症制御の経済的不可逆性

論文抄録(日本語版)]

感染症制御の経済的不可逆性:対策の遅れとそれに伴う社会コスト増加の理論解析

東北大学大学院理学研究科 本堂 毅

【目的】

新型コロナウイルス感染症は,社会全体での対策を要し,大きな経済的コストを発生するため,狭義の医学に留まらず,建築,数理科学,経済など多様な知見を必要とする学際テーマである.そのため,必要十分な対策を適切なタイミングで行う必要がある.感染制御に関わるこれまでの研究の殆どはシミュレーションで行われてきた.ケンブリッジ大のRowthornらは,英国の社会経済的条件下でシミュレーションを行い,ロックダウン後には感染者を低いレベルで抑えるような実行再生産数1程度の制御により,社会経済的に適切な介入になるとの結果を示した.しかしシミュレーション手法では,得られた結果の一般性は十分明らかにできないため,異なった社会経済的条件を持つ現実系への適用に困難が生じる.そこで本研究では,普遍性の高い最小の仮定だけを数理モデルに課し,理論的に厳密な解析を行うことにより,系の詳細に依らない感染症一般に適用できる結果を得ることを目的とする.

【方法】 本研究では,理論計算に以下の仮定を採用する.

費用便益分析(CBA)に用いる仮定

全社会的コストは,感染制御に関わる経済コスト(損失)と治療に関わる医学的コストの和とする.経済コストは,非介入時の実効再生産数において0とし,介入によって実行再生産数が減少すると共に,その一次微分の絶対値とともに増加する.医学的コストは,感染者数に比例させる.

感染症増減の動的モデル

SIR model.感染抑止なしでは,実行再生産数が1を越える「感染拡大期」を仮定.集団免疫の有無と関係ない一般的な議論が可能になる.結論はSIR modelに依らない一般性を持つ.

【結果と考察】詳細はプレプリントをご覧ください

以上の単純な仮定を認めれば,以下の結果を近似を置かず,論理的に導くことができる.

  1. 緊急事態宣言とその解除のような,ON/OFF形対策の繰り返しは,全社会的コストを大きく要する,不合理な対策である.
  2. 感染拡大時に実行再生産数を1以下にするような適切な介入を行わず,感染が拡大した後に(医療崩壊のおそれなどから)急激な感染抑止策をとることは,経済コスト,医療コスト双方,すなわち全社会的コストを大きくする,不合理な対策である.
  3. 感染者数が一度増えてしまえば,元の感染者数に戻すには,これを一定に保つよりも社会的コストを要する.すなわち,感染者数の増加は経済学的不可逆性を生ずる.
  4. 以上の結果は,感染症モデルにおいて,感染者数が指数関数的に増減する性質のみに基づくものであり,これは感染症全般に共通する性質であるから,【方法】に記した仮定の下で,実行再生産数Rが定義できる感染症一般に共通する性質と考えられる.
図1.実効再生産数と経済コストの一例
縦軸が時間あたりの経済コスト,横軸が実効再生産数.この図では非介入時の実行再生産数を2と仮定している.理論計算では,この一例に限らず一般的に,介入によって実効再生産数が低くなるに従って経済コストが単調に増加し,その増加率も大きくなることのみを経済コストに仮定している.
図2.感染拡大と緊急事態宣言等による急激な感染抑止の繰り返し(の一例)
縦軸がある時点での感染者数,横軸が時間.実行再生産数の時間平均を1(平均としては感染者数が一定)とした例.感染拡大と(緊急事態宣言等による)感染抑止の繰り返しを行った場合,感染者数の平均は,感染者数を常に一定にした場合に比べ大きくなる(医療コストが大きくなる)ことが分かる.
図3.感染拡大と感染抑止の振れ幅が大きくなると医療コストは大きくなる.
横軸は図2における感染拡大の大きさ,縦軸は感染者数を一定に保つ場合と比較した場合の,医療コストの増加割合.ここで,実行再生産数の時間平均はいずれの場合も同じとして比較している.したがって,緊急事態宣言とその解除のような,ON/OFF形対策の繰り返しは,感染者数を一定にするような対策と比較して,全社会的コストを大きくする不合理な対策であることが示唆される.すなわち,感染状況をステージ1,2,3,4に分類し,ステージが大きくなった段階で感染抑止策をとるという基本的な枠組自体が医療コスト的に不合理であることが示唆される.
図4.実効再生産数の振れ幅が大きくなると経済コストも単調に大きくなる.
横軸は実効再生産数,すなわち感染拡大と抑止の振れ幅,縦軸は平均経済コスト.感染拡大と抑止の振れ幅が大きくなるに従って,平均経済コストも指数関数的に大きくなる.感染拡大と緊急事態宣言による感染抑止の繰り返しような対策の枠組は,感染者数を一定に保つ対策と比較して経済コストを大きく要するだけで,図3に見られるように,医療コスト抑止(感染者減少)に適う対策の枠組ではないことが,この理論の仮定の下に示唆される.パンデミック下での感染対策として,ステージを1,2,3,4に分け,ステージが進んだ段階で対策を取るような枠組は,経済と医療の両立に反する,根本的に不合理なものであることが示唆される.
図5.感染抑止対策の遅れは医療コスト,経済コスト双方の増加を招く.
縦軸は(a)が平均医療コスト,(b)が平均経済コスト.横軸は感染抑止対策の遅れ(感染抑止を始めるまでの日数を元の感染者数に戻るまでの日数で割ってある).いずれのコストも,感染者数を一定に保つ対策を取った場合で標準化してある(割ってある).すなわち,縦軸は感染者数を一定に保った場合に比べた場合のコストの増加率である(2であれば2倍,10であれば10倍).感染対策への着手が遅れることによって,医療コスト,経済コストも急激に跳ね上がることが分かる.
図6.理論解析結果の一般性についての考察
横軸は時間,縦軸は感染者数を全人口で割ったもの.この解析ではSIRモデルを出発点に,指数関数的な感染者数の増減が生ずることを仮定して解析を行っている.感染者が治癒後に免疫を持たないとするSISモデル,治癒後に一度免疫を持つが一定期間後に免疫を失うとするSIRSモデルにおいても,指数関数的な増減の性質に変わりがないことを図6で確認できる.指数関数的な増減は,感染力が実効再生産数で特徴付けられることからも分かるように,感染症一般に共通する性質であるため,本理論解析において採用した感染症増減の動的モデルは,相応の一般性を持っていると考えられる.図6は図1〜図5とは異なり,Euler法を用いた数値シミュレーションで得ている.
なお,この図からは,対策を早いステージから行うことの重要性も読み取ることができる.感染者数の増加は,感染率が低い段階から『指数関数的に』続いていて,それが放置された結果,誰の目にも明らかになった段階では,鎮火させるのに多大なコストを要する状況になることが本研究で示されている.がんと同じで,ステージ4に達するまで待つのではなく,早期発見による低侵襲な対処が望ましいことが,この理論解析から示唆される.

この研究の適用限界

これらの結果は,いずれも【方法】で述べた仮定の下に理論的に導かれたものであり,その仮定は,英国ケンブリッジ大学の経済学者Robert Rowthornが英国の社会経済条件下でのシミュレーション解析に用いたものと本質的に同じである(Rowthornは本研究のような一般的理論解析は行っていない).現実社会に比べれば少数かつ単純な仮定であるため,そのまま社会に当てはめることはできないだろう.ただし,感染症数理モデルの詳細にはよらない結果であること,経済コストと医学的コストで用いた仮定は特定のモデルを仮定しておらず,それゆえ広く成り立つ一般性が予想できることから,様々な社会経済条件を持つ現実社会で共通して内在する普遍的性質を明らかにしていると考えている.現実社会で加わる他の要素が,この研究結果を覆すほど大きな影響を持つか,あるいはこの研究結果をどれほど修飾していくか等を検討しつつ,本結果を活用して頂ければと考えている.

コメントする

メールアドレスが公開されることはありません。 が付いている欄は必須項目です