読者の声,編集委員からの回答
読者の声

■読者の声 (2019年4月5日)

私は薬学部に所属しておりますが、数年前から研究公正の問題にも携わっております。本書には研究公正を考える上でも重要なヒントがたくさん含まれていて、大変参考になりました。ありがとうございます。

以下は、個人のFacebookで投稿した記事です。本書の感想と推薦です。

「科学の不定性」という用語は本書で初めて知りました。馴染みのない用語がタイトルに含まれていたことから、一旦手に取ることを躊躇しましたが、結果的には私にとって大変有意義な内容でした。東日本の震災、原発事故、あるいは科学研究予算の「選択と集中」を通じた研究コミュニティの衰退といった経験を通じて、社会との関わりの重要性に気付いた研究者は多いと思います。専門領域を離れたときには、研究者である自分もまた「科学」ではなく「社会」の側にあること、一方で科学者に共通する態度は必ずしも社会に受容されているわけではないことといった問題意識は高まっているのではないかと思います。
 科学コミュニケーションをテーマにした一般向けの書籍は増えていますが、私の知る限りですが、研究者が一読して抵抗なく読み進めることができるものは少ないと思います。本書の執筆者も取り上げていますが、スノーが指摘した二つの文化の問題は今もなお大きな障害となっているように思います。自然科学の研究者が社会との接点を議論することはなくはないのですが、議論が生硬過ぎて読者が限られてしまったり、あるいは不用意に哲学者の議論を引用することで専門家から厳しい批判を受けたりしている例を見ると、道のりは険しいと感じます。逆に、トーマス・クーンが引用されて、自然科学は相対的で、学説は恣意的に選択されるなどという議論が出てくると、そこで関心を失ってしまう科学者は多いでしょう。最新の知見を不十分な理解のまま持ち出して、これは科学が消滅して、新たな統合的な学問が生まれる兆しだなどという主張は、一種の個人的な願望のようなものと感じざるを得ません。

本書では、異分野の研究者が集まっているにもかかわらず、ある一定のトーンでそれぞれの議論があることが素晴らしいです。嚙み合わない議論の背景には一種の頑なさがありますが、本書の執筆者の方はどの方も柔軟性と寛容さがあるように感じました。「科学の不定性」とはトランス・サイエンスの問題と重なるようですが、本書では「不定性マトリックス」というフレームが紹介されます。ここでは、社会の様々な課題に取り組む中で科学の知見をどのように取り込むのが良いかを考えることができます。逆に、科学が決定できない問題に、どう人文科学の知見を利用すれば良いのかを考える材料にもなります。第7章は一番理解に時間がかかった箇所になりましたが、それだけ自分の考え方に自由さがなくなっているのだと感じました。

第8章における英国のGCSE改革(2006年)も大変興味深い内容でした。自然科学の成果である知識を少しでも多くインプットすることが良いのか、あるいは「科学」に向き合う態度を教育する方が良いのかという、大変高度な議論です。「放射性廃棄物」の授業の実例は、まさに今、私たちの国で実践する価値のある優れたプログラムだと思います。一方で、この改革に対する批判もいずれも的を射たもので、実際の教育の場においてはまだまだ工夫の余地があることが分かります。しかし、科学者の側からはこうした教育の取り組みを高く評価し、自然科学に共通した態度を少しでも社会に普及させるための努力を継続するべきなのでしょう。

オーストラリアの裁判における「コンカレント・エビデンス」の紹介も大変興味深い内容です。係争する双方が、それぞれの主張に有利な発言をする研究者を呼んできて議論するという従来の方式は、科学が本来求めようとする現実の近似という方向性とは相容れないものです。双方の研究者が議論することによって、専門家の合意する結論を裁判官に提示するというプロセスは、科学を社会で活用するひとつの優れたアプローチだと思います。

「科学リテラシー」は研究者には当然備わっているものであり、改めて学ぶ必要はないと考える方もいるでしょうが、本書を通じてそれが誤解であることに気付くことになると思います。

京都薬科大学 田中智之


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■読者の声(2018年)
 「科学者の知見は、専門性を共有する者どうしの相互評価(ピアレビュー)によって、妥当性が担保されているとみなされてきました。しかし、それは基本的には科学の世界における妥当性であり、社会的な活動の場面での妥当性まで保証するものではありません」(本書177~178頁)とありますが、「社会的な活動の場面での妥当性」は保証しないまでも、「科学の世界における妥当性」については「ピアレビュー」によって、本当に「妥当性が担保され」ているのと言って良いのでしょうか。携帯電話からの電波と脳腫瘍との関係について、その疫学の評価そのものをめぐって科学者の間で意見が対立しているようであることからも、「社会的な活動」から生じる価値観から完全に中立でいられる「科学」は、ごく限られた分野にとどまるのではないかと思います。結局政治力?のある科学者たちの見解が「ピアレビュー」の世界でも幅をきかせているのではないか。その疑問が市民の科学不信のもとになっているのではないかと思います。

■編集委員より
 ご質問ありがとうございました.重要な質問であり,編者の間で検討した回答をお示しします.
 「専門性を共有する者どうしの相互評価(ピアレビュー)によって」評価される「妥当性」の中身とは何でしょう.科学者が学術論文を投稿し審査される場面を具体例として考えてみます.投稿された論文は,同じ分野の科学者(=ピア)が読んで評価をします.評価を担当する科学者,すなわちレビューワーは,論文にこれまでの知見とは矛盾する仮定や,誤った論理展開がないか,実験や観察の手法に問題点がないかなどを検討していきます.疑問点が出てくれば,その疑問への回答を投稿者に求める場合もあります.レビューワーは,論文全てを正確にチェックすることは原理的にできませんし,実際求められていません.
 たとえば,理論を中心にした研究の場合,理論式から別の式を導き出すこと,すなわち式の導出はとても重要ですが,これとて,審査する科学者(レビューワー)がすべての導出の正しさをチェックすることは,少なくとも物理学では審査の際に課されていません.実験の論文では、レビューワーが再実験をすることは費用、時間、能力の面からしてほぼ不可能ですし,そもそも再実験をしたとしても,全ての条件を論文投稿者と同じにすることは原理的に不可能で,再実験の結果が論文の結果と異なることも起こりえます.このように,理論・実験,いずれの場合も,レビューワーが気づく範囲内で矛盾が見当たらず,かつ,その雑誌に掲載することに「価値」があるとみなされた場合,審査する科学者は「掲載可」のレポートを編集長に送ることになります.
 ここで「価値」と書いたのは,審査で行うことは,論文内容の単なる間違い探しではなく,その論文に,その分野の研究を相応に発展させることが期待される新しい知見が含まれているかどうかを評価することだからです.言い換えれば,投稿された論文に問題点が見出されなくても,その論文に十分な価値がない,いわば当たり前の結果だけと判断されれば,論文は出版を拒否されることになりますし,逆に,相応の問題があったとしても,その論文の発見なり知見が,その分野を大きく発展する可能性があれば,その論文は受理され出版される可能性が高まります.
 その分野の発展とは,その分野が工学や医学など,社会との関わりが大きい分野であるほど,社会的価値との関係性が深まります.その社会的価値は,科学的事実で白黒がつくようなものではないですから,その分野の科学者,一般には専門家集団の価値観が反映されてしまうことは避けられません.
 このように,論文が受理されて掲載されるということは,その科学的内容の正しさを保証するものではなく,その学術分野として出版する価値があるかどうかによって判断されているものです.明らかに誤った論文は出版される可能性が低い一方,出版されている論文だからといって,そこに書いてある内容が正しいことは保証されていないのです.実際,科学者自身が論文を読む際には,そこに書いてある主張が本当に正しいのかどうかを,常に批判的な目で考えながら検討していきます.出版された論文に書いてあるから正しい主張だと考える科学者は存在しないでしょう.
 私たちの書籍で,「科学の世界における妥当性」と書いたのは,「科学的正しさ」の妥当性というものではなく,「科学の世界」の一定分野において,より具体的には評価を行った特定のレビューワーらにとっての,論文出版への「妥当性」判断の結果に過ぎないという意味です.質問で指摘頂いているように,その妥当性は,科学的正しさとイコールではないということは,とても重要なポイントだと思います.